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    「あゝ、お医者?」

    と、彼女は半ば問ふやうに、まじまじと徳次の顔を眺めた。彼はいつの間にか戸口から少し家の中へ入りこんでいた。だが、その奇妙な遠慮深さのために片手で入口の柱をつかまへたまゝ、宛あたかもまだ家の中へはすつかり入り切つてはいませんや、と云つているやうな恰好をしていた。その時盛子は男が今一方の手で平つたい笊を抱へているのに気づいた。その中には笹の葉のやうなものがのせられ、下では魚の腹らしいものが光つて見えた。

    半之丞の豪奢を極きわめたのは精々せいぜい一月ひとつきか半月はんつきだったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴くつの出来上って来た時にはもうその代だいも払えなかったそうです。下しもの話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元値もとねに買っておくんなさい。これが誰にでも穿はける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、お前まえさんの靴は仁王様におうさまの草鞋わらじも同じなんだから」と頭を下さげて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。

    と、房一は加藤巡査に云つた。御苦労だが、加藤巡査には角屋のところで本署の自動車を一先づとめてもらひたい。こつちは自分が引受けるから、こゝへ乗りつけないやうに何とか待たせていたゞきたい、その間にこちらの始末をつけ、自分が責任者になつて出向いてよく話をするから――。

    と後を追ふと、徳次は

    恐らくその一かたまりでは赤山廃坑の話がさつきから賑かだつたのだらう。さう勢ひこむやうな調子で喋つていたのは富田といふ仲買だつた。

    「馬子まごにも衣裳つて云ふから――」と云つたほどである。

    「あれですよ。半之丞の子と言うのは。」

    その通り、近くに似たやうな河はいくつもあつたが、それは鮒がたくさんとれると思ふと鮎がさつぱり駄目だし、うす濁りがしているし、ずつと先の木ノ川は河幅こそ広く水もたつぷりしているがあんまり大きすぎてよほど上流まで行かないと鮎をとる手立てがない、してみるとやはり、この吉賀川は彼等の口にするごとく「名うて」の川にちがひなかつた。

    疲労したあまり不機嫌になつた大石練吉は、手荒く疳性かんしやうに衣裳をくるくると巻きながらいつもよりも激しくその切れ目をぱちぱちさせて云つた。

    正文は練吉を附属病院から引かせて家へ連れもどつた。そして、大急ぎで第二の嫁を迎へた。多分、流石さすがに親に迷惑をかけ過ぎたと気づいたのだらう、練吉は温和おとなしく帰国することにも同意したし、何もかも親任せだといふ態度を見せた。見合ひのために、正文夫婦とつれ立つて隣県の市へ赴おもむきもした。ところが、結婚式が済んで十日もたゝぬうちに、練吉は二度目の妻がどうしても嫌だと云ひ出した。そして、頻々と家を明けた。近くの町の料理屋で流連いつゞけするのである。正文は激怒した。だが正文が恰好をつけるに急で、慌てて結婚の話を進めたと同様に、相手の方でも何か過失があつて結婚を急いでいたらしい。そして、この嫁もあまり出来はよくないらしく、正文の家の悪口を手紙に書いて実家に出した。たまたまその一通を練吉に托したところから、中味がばれ、正文は直ちに彼女を実家へ帰した。しかし結局は練吉の云ふなりになつた形である。

    膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべていた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つているのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗どんぐりのやうに何かむくむくした男を見た。

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